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書評

ジル・ドスタレール著『ケインズの闘い』

鍋島直樹/小峯敦監訳、藤原書店2008.9.刊行

『東洋経済』2008.11.15, 152.

 

 

本書を後ろから読みはじめたら驚いた。巻末の付録「友人および同時代人が見たケインズ」によれば、ケインズは周囲の人々からあらゆる賛辞を送られた「愛と機敏に満ちた魅惑的人物」なのだ。これほど人情に厚く、会話の名手でありながら、当代屈指の学的貢献をなした人物というのは、もしかするとソクラテス以来かもしれない。

そう思わせるだけの筆力が、本書にはあるだろう。ケインズと共に会話を楽しみたい。できることなら同時代を生きてみたい。経済学者としてのみならず、論理学者、散文作家、心理学者、書籍収集家、絵画鑑定家、あるいは政治活動家としても活躍したケインズ。そのたぐいまれな才能の組み合わせによって、20世紀前半の歴史に大きな足跡を残した巨人の実像を、当時の状況を踏まえて生き生きと描き出す。本書は日本語で読めるケインズ評伝の決定版、その全体像に迫った記念碑的著作だ。

しばしばケインズは、「ケインズ主義者ではない」と言われるが、彼はつねに自分の見解を変更する余地を残していた。R・カーンの回顧によれば、ケインズは「自分が以前に考えたり主張したりしたことに全く縛られずに、毎朝、新生児のように目覚めることの利点を享受している」としばしば語ったそうである。ならばケインズは、状況次第で現代のネオリベ政策を一部支持したかもしれない。彼の発想の根幹には、体系的な経済政策を貫くよりも、時と場所に応じて治療的な対応をすべきとの考えがあった。経済政策とは治療術であって、その技能はルールに縛られてはならないとの立場である。

むろんケインズは、日和見主義者ではない。本書が示しているのは、臨機応変な経済政策を導く際に、ケインズは洞察ある深い人間学を携えていたという事実である。ケインズの知性は、経済学を「副次的な学問」とみなすことができるほど、豊かな教養に支えられていた。

彼にとって政治経済の問題は、世界全体を幸福な場所にするという崇高な目的をもっており、しかも反功利主義的なものだった。ケインズの求める幸福とは、G・E・ムーアのいう倫理、つまり友情や親密な関係、美の観照や真理の追求を通して、「意識の善き状態」を獲得することであり、またその状態を集団で獲得するために、生活術を改良することであった。

 ただそのための道は一筋縄ではいかない。道は逆説に満ちている。必要なのは、様々な逆説に入りこんで緊張関係を生きることではないか。「ケインズの闘い」とはまさに、論争において理想を見失わず、人間な品位を保ちえた点にあるだろう。

 

橋本努(北海道大准教授)